夜の静けさが輪郭を持ちはじめるとき、サンローランの黒はただの色ではなくなる。
《Le Smoking》誕生60年を迎えた今季、アンソニー・ヴァカレロはタキシードの緊張と、
ラテックスで硬化させたレースの透明性を重ね合わせ、“強さと脆さが同時に存在する身体”を静かに描き出した。
光を吸い、影を刻み、揺らぎを美に変える――2026AWは、サンローランが夜に語る最も純度の高い物語だ。


タキシードが“女性の服”になった日から60年、その物語をもう一度編み直す
サンローランの歴史を語るうえで、《ル・スモーキング》は避けて通れない存在だ。 1966年、まだ“女性がタキシードを着る”という発想が大胆すぎた時代に、イヴ・サンローランはその常識を軽やかに裏切り、女性のためのタキシードを発表した。 それは単なる服ではなく、女性が自分の身体をどう見せるか、どう生きるかを選び取るための“新しい自由”そのものだった。
2026年、60周年という節目に、アンソニー・ヴァカレロはこの象徴的な服を、記念碑としてではなく“いまの身体のための構造物”として再構築する。 ラペルはアーカイブより鋭く、夜の空気を切り裂くように5〜7度深く傾けられ、視線を縦に落とす黒の線を描く。 肩はパッドを薄くしながらも外側へ張り出し、直線的な強さを保つ。 そして前身頃は重く、後身頃は軽い。歩くたびにジャケットが前へ滑り落ちるように揺れ、その動きが“歴史の重み”を静かに語る。
ヴァカレロは、60年の歴史をただ祝うのではなく、 “タキシードとは、女性にとって何を意味するのか”という問いを、もう一度角度から問い直した。 その姿勢こそが、サンローランの現在地をもっとも雄弁に物語っている。



素材の“硬さ”と“柔らかさ”で描くジェンダーの新しい地図
サンローランの服は、昔から“男性性と女性性の境界線”を揺らすことで知られている。 しかし2026AWでヴァカレロが選んだのは、概念的なジェンダー論ではなく、もっと触覚的で、もっと身体に近いアプローチだった。 つまり、素材の硬度でジェンダーを語るという方法だ。
男性性の象徴であるウールギャバジンは、 あえて柔らかく仕上げられ、身体に沿うように落ちる。 その柔らかさは、男性性=硬いという固定観念を静かに裏切り、 “強さとは何か”という問いを投げかける。 一方、女性性の象徴であるレースは、 ラテックスで硬化され、“薄い板”のような存在感を持つ。 本来は肌を飾るための繊細な素材が、 ここでは身体の上に“置かれる”構造体として扱われる。
柔らかいはずのものが硬く、 硬いはずのものが柔らかい。 その反転が、ジェンダーの境界線を曖昧にし、 サンローラン特有の“知的な官能”を生み出す。 ヴァカレロは、ジェンダーを“語る”のではなく、 ジェンダーを“触れられるもの”として提示する。 その触覚的なアプローチが、コレクション全体に深い余韻を残している。


透明性を“脆さ”から“強さ”へと反転させる素材実験
レースと聞くと、多くの人が思い浮かべるのは“繊細”“柔らかい”“女性的”といったイメージだろう。 しかし2026AWのサンローランでは、その常識が静かに裏切られる。 レースはラテックスで硬化され、布ではなく構造体として扱われるのだ。
完全硬化ではなく、縁だけが硬く、中央はわずかに柔らかい“部分硬化”。 この二層構造により、カーディガン風ジャケットは前立てが直線を保ち、身頃だけが微細に揺れる。 その揺れは風ではなく、素材そのものが持つ緊張と緩和のリズムだ。
縫製も特殊で、ミシンではなく熱圧着と手縫い補強を併用する。 レースの“穴”を避けながら縫うため、縫い目のピッチは不均等。 しかしその不均等さが、むしろ美しさとして浮かび上がる。
透明性=脆さではなく、 透明性=強さ。 その価値観の転換こそ、2026AWの核心であり、 サンローランが“夜のエレガンス”を語るための新しい言語になっている。

